ソウルで紡ぐ、学究と心の故郷:韓国大学院生活がもたらすアイデンティティの変容
異文化の学び舎が示す、故郷とアイデンティティの新たな地平
私たちは皆、それぞれの故郷を胸に生きています。しかし、その故郷という概念が、異文化との出会いによって再定義されることは少なくありません。今回は、日本の大学を卒業後、隣国韓国の首都ソウルで2年間の大学院生活を送った佐藤恵さんの物語をご紹介します。彼女が学問を深める中で、いかに自身の故郷を捉え直し、アイデンティティを形成していったのか、その内面の変遷を紐解いていきます。
ソウルのキャンパスで直面した現実と適応の道
佐藤さんがソウルでの大学院生活を始めた当初、期待とともに大きな戸惑いがありました。文化的な近さからくる安心感とは裏腹に、学術的な環境や日常生活には顕著な違いがあったからです。
まず、学業面では、授業中の活発なディスカッションや、教授との密なコミュニケーションスタイルに驚かされました。日本での受動的な学習態度とは異なり、積極的に意見を表明し、議論に参加することが強く求められたのです。また、先行研究の読み込み方や論文の構成方法においても、日本とは異なるアプローチが求められ、当初は自身の研究の進め方に確信が持てず、深い孤独感を覚えることもありました。言語の壁も常に存在し、高度な専門用語を韓国語で理解し、議論に加わることは容易ではありませんでした。
日常生活においても、カルチャーショックを経験しました。例えば、人間関係の近さや、目上の人への敬意を示す文化は、日本のそれとは異なる繊細な機微を伴います。特に食事の席では、年長者が先に箸をつける、注がれた酒は片手で受けない、といったマナーがあり、無意識のうちに失礼がないよう常に気を配っていました。友人関係においても、日本よりも深い個人情報を共有し合うことを求められる場面があり、心地よさと同時に戸惑いを感じたこともありました。
これらの困難に対し、佐藤さんは様々な適応戦略を試みました。学業面では、研究室の先輩や同級生に積極的に質問し、時には彼らの表現方法を模倣しながら、自身の意見を伝える練習を重ねました。言語学習も並行して強化し、専門用語を日常生活で意識的に使うように努めました。日常生活では、韓国人の友人にマナーや文化の背景について尋ね、理解を深める努力を惜しみませんでした。また、共通の趣味を通じて現地のサークル活動に参加することで、学業とは異なるコミュニティに属し、精神的な支えを見つけることができました。
「故郷」の再定義とアイデンティティの揺らぎ、そして確立
異文化での生活と適応のプロセスは、佐藤さんにとって自身の「故郷」という概念を根本から見つめ直す機会となりました。
物理的な場所としての故郷、日本への思いは、ソウルにいることで客観的な視点を持つようになりました。日本特有の良さ、例えば公共交通機関の利便性やきめ細やかなサービスを再認識する一方で、均質性や画一性といった課題にも目を向けることができるようになったのです。また、ソウルが自身の生活の場となるにつれて、カフェで過ごす時間、馴染みの食堂の味、研究室の友人たちとの会話が、次第に心の拠り所、すなわち「第二の故郷」と感じられるようになりました。
故郷の概念は、単なる地理的な場所にとどまりません。佐藤さんは、韓国での人間関係を通じて、故郷が「人が紡ぐ縁の中に宿るもの」であると認識するようになりました。言葉の壁を乗り越え、文化の違いを理解し合った友人たちとの絆は、物理的な距離を超えて自身を支える精神的な故郷の一部となっていったのです。同時に、遠く離れた日本の家族との定期的な連絡は、自身のルーツを確認し、安心感を得る大切な機会となりました。
自身のアイデンティティもまた、この異文化体験を通して大きく変容しました。当初は「日本人である自分」という意識が強かったものの、多様な国籍の留学生や現地の韓国人との交流を通じて、自身の価値観が相対化されていくプロセスを経験しました。例えば、時間に対する感覚や、個人主義と集団主義のバランスに対する考え方が、文化によって多様であることを実感し、自身の価値観を絶対的なものとして捉えるのではなく、複数の視点から物事を判断する柔軟性を身につけていきました。
この過程では、自身の根源的な部分であるアイデンティティが揺れ動く「アイデンティティ・クライシス」(自己喪失の危機)のような状態も経験しました。どちらの文化にも完全に属しきれない感覚、自身が何者であるのかという問いが常に頭の中を巡りました。しかし、この揺らぎを乗り越える中で、佐藤さんは「日本人としての自己」を再認識しつつも、同時に「国際的な視点を持つ個人」としての新しい自己像を確立していきました。それは、一つの場所に固定された故郷ではなく、自身の経験と価値観が織りなす多層的な故郷を心の中に持つこと、そして多様なアイデンティティを柔軟に受け入れる自己へと成長していくプロセスだったのです。
体験がもたらす学びと未来への示唆
佐藤さんの韓国での大学院生活は、単なる学術的な知見の獲得にとどまらず、人生観や世界観に多大な影響を与えました。物事を多角的に捉える力、予期せぬ困難に対する適応力、そして何よりも自分自身の内面と深く向き合う姿勢を養うことができたと語っています。
この体験は、将来の留学を検討されている方々に対し、貴重な示唆を与えてくれるでしょう。異文化への適応は決して平坦な道のりではありません。しかし、文化の違いによる驚きや戸惑い、精神的な葛藤や失敗は、自己を深く掘り下げ、新たな価値観を構築するための重要なステップとなり得ます。故郷という概念は、特定の場所だけでなく、経験、人間関係、そして自身が培う価値観の中に多様な形で存在し得るということを、佐藤さんの物語は教えてくれます。
留学は、異文化を理解するだけでなく、自分自身を深く理解する旅でもあります。異なる環境に身を置くことで、私たちは自分自身の常識や前提を疑い、多様な価値観を受け入れる柔軟な心を育むことができます。それは、グローバル化が進む現代社会において、他者と共生し、より豊かな人生を築くための重要な礎となるでしょう。佐藤さんは現在、韓国での経験を活かし、日本と韓国の文化交流に携わる仕事に従事しています。彼女にとって、故郷はもはや固定された場所ではなく、自身の活動を通じて常に更新され、広がり続ける概念となっているのです。